新海監督「君の名は」を今更だけど観ました。(ネタばれあり) [ NO MOVIE NO LIFE !]
映画「君の名は」を観終わった時、何とも言えない爽快感がカラダと心を軽くした。
長年の経験から、大勢が良いというものはどこか胡散臭いと思っている。薄っぺらい教科書のような教訓話や甘ったるいラブ話、経験値の低い若者のお安い感動には、わたしには、物足りないだろうとシラケた気持ちでいた。
確かにそういう要素はあった。でも、思っていた話とは大分違った。
首都圏直下型地震の確率って、なんパーセントのでしたっけ?30~70%位だったかなと思う。
3・11以降、わたしは、この世界がこのままのずっと同じでないことを強く意識している。わたしだけではないと思う、日本人の多くがきっと、大切な人、場所、ものから、唐突に引き離される事があることを気がついている。震災に限らない、戦禍なんかで当たり前にあった生活を追われる人は世界中にいる。
「君の名は」では、2人の主人公、瀧くんと三葉(みつは)が、互いの世界を、それぞれの別の目で見つめる事で、日常、人、場所や思いを素直な気持ちで受けとる事が出来る。「こんな毎日やだ」「こんな事やりたくない」とか、家や肉親の関係や言葉が煩わしいとか、そんな事が、他者の目でみると見えてくる真の意味、美しさ、かけがえの無い大事なものだと知る。
見た人が舞台になった飛騨へ行きたがるようだが、わたしは身近な東京の風景に郷愁にも似た愛おしさを感じた。なんでもない日常、歩道橋から見る空、雑踏、自動車の音や電車の揺れ、電車のすれ違う時の衝撃音、そんなものまでいとおしくなって、失われたものへ想いを馳せる未来の郷愁なのかもしれない。
もうひとつ、この映画のヒットの理由は、二人は「会えば絶対わかる」という台詞に反して、ブレーカーが落ちるごとく、忘却を含む唐突な離別が何度も観客の目の前で繰り返される。「どうして?」とか、「どうなってるの?」という疑問を挟む隙をあたえられない早い展開で、ラストで、観客の共通の祈りが成就する快感にあると思う。
神的(かみてき)なもののイタズラに翻弄される話ですが、目的や仕組みについては、ほとんど説明がない。だから、見終わっても、「うっ?あれはなんで?」なんて所がいっぱいあった。二人の間には3年のタイムラグがあるが、情報社会で、都会も田舎も同じ情報が同時に得られる時代にいくらなんでも気がつくだろう?とか。伏線めいたエピソードや台詞がいっぱいあるのに、しっかりした裏付けがあるわけでもないので、この映画を観てない人にどう説明したらいいのかがわからない。重箱をつつくようにケチをつければいくらでもつけられるような気がする。でも、「まあいいじゃないか?」という気持ちになるから不思議な映画だ。かえって変な宗教観や道徳観がなく、押しつけがましくなくていい。大ヒットのわりに案外、ネタバレしていないのは、上手に説明出来る人がいないからかもしれない。
儚い世の中に、確実な縁を求め、それが、ラストシーンでかなえられる(たぶん)幸福感。RAD WINPSの生死を飛び越えたラブソングが希望を添える。
何度も観てしまう人がいるのは、この幸福感を繰り返し味わいたいというのが、一番にあると思う。
またいつか、心がくたびれて来たら、観てみよう。
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